鈴鹿海軍工廠 海軍工廠とは 関連施設跡


鈴鹿海軍工廠
 鈴鹿市の軍事施設は3つのグループに大別されます。第一のグループは市の中央部,平田町,算所町,岡田町,道伯町,住吉町,庄野町,平野町,国府町にまたがる鈴鹿海軍工廠を中心とするものです。ざっと1万人が働き,機銃と弾薬を製造していました。現在は,本田技研工業,旭化成ケミカルズ,イオンモール鈴鹿などが立地しています。
鈴鹿海軍工廠
 当時鈴鹿海軍工廠の名称を海軍省ではJ廠とよんでいた。アルファベットで10番目に建設された工廠。
 建設予算:3億円  従業員数:3万人  敷地面積:2,150万u
 機銃部,火工部(航空機搭載の機銃・弾薬包・信管・雷管の製造を担当=零戦の機銃の生産)
 昭和20年8月:.鈴鹿海軍工廠廃止
【製造品】(機銃)→2式13o旋回機銃,92式7.7o旋回機銃,97式7.7o固定機銃
       (弾薬)→30o弾包,13o機銃弾薬包,7.7・7.9o機銃弾薬包,爆弾薬包,爆弾信管   
海軍工廠令 鈴鹿海軍工廠(経緯)
年月日 経   緯
第一条
  海軍工廠ハ艦船兵器(航空兵器ニ付テハ海軍大臣ノ特ニ指定スルモノニ限ル以下同ジ)ノ造修、購買及 
 実験ニ関スルコトヲ掌ル
 海軍工廠ハ前項ノ外工作物タル有線通信装置ノ造修、購買及実験ニ関スルコトヲ掌ル
平成16年10月  海軍艦政本部にて国内10番目となる海軍工廠(J廠)が鈴鹿に設置されることが決定される。
平成17年 4月  建設主任の内田亮之輔大佐が着任。直ちに土地買収,測量,設計が行われる。
第二条
 海軍工廠ノ所属及名称左ノ如シ
  横須賀鎮守府所属
    横須賀海軍工廠
    多賀城海軍工廠
    相模海軍工廠
    高座海軍工廠
    沼津海軍工廠
    豊川海軍工廠
    鈴鹿海軍工廠
    津海軍工廠
  呉鎮守府所属
    呉海軍工廠
    広海軍工廠
    光海軍工廠
  佐世保鎮守府所属
    佐世保海軍工廠
    川棚海軍工廠
  舞鶴鎮守府所属
    舞鶴海軍工廠

以下省略



(昭和11年6月27日勅令第百三十一号)
平成17年 5月  海軍と建設会社で「鈴鹿海軍工場協力隊」が組織され,建設が本格化する。仮建設事務所を国府新田におく。
 竹中工務店(設計) 間組(見積もり)
 銭高組(木材配給) 北川組(労務生活物資)
 中嶋組(資材配給)
平成17年 8月  住吉町の土地を買収し,発射場が建設される。
平成18年 4月  平田町に高等官集会所が完成する。官舎,宿舎,工員住宅も建設される。
平成18年 4月  工員養成所が完成し,技術訓練が行われる。
平成18年 6月  鈴鹿海軍工廠が完成し,開廠式が行われる。
平成19年11月  艦政本部より緊急疎開令が下り,翌年より分工場に機械等が移転される。
   
所属及名称 担  当 開  廠 都道府県名
横須賀鎮守府所属
  横須賀海軍工廠 造船部,造機部,実験部(光学,機雷,航海,通信,電池,機関) 1903年11月 神奈川県
  多賀城海軍工廠 機銃部,火工部(戦闘機搭載の20ミリ機銃・弾薬包・爆弾の製造を担当) 1943年11月 宮城県
  相模海軍工廠 火工部(焼夷弾・爆弾の一元製造,防毒マスクの製造を担当) 1943年05月 神奈川県
  高座海軍工廠 局地戦闘機,雷電の本格的な生産にはいったが,戦局の悪化とともに,当初の目的を達成することはできなかった。 1944年04月 神奈川県
  沼津海軍工廠 航空無線部(無線機の製造のみ担当) 1943年06月 静岡県
  豊川海軍工廠 機銃部,火工部,光学部 1939年12月 愛知県
  鈴鹿海軍工廠 機銃部,火工部(航空機搭載の機銃・弾薬包・信管・雷管の製造担当) 1943年06月 三重県
  津海軍工廠 発動機部,推進機部(航空エンジンの製造のみ担当) 三重県
呉鎮守府所属
  呉海軍工廠 砲熕部,火工部,水雷部,電気部,造船部,造機部,製銅部,実験部(潜水艦の砲熕,魚雷,電気,製銅) 1903年11月 広島県
  広海軍工廠 航空機部,造機部,実験部(機関,工作機械) 1923年04月 広島県
  光海軍工廠 砲熕部,水雷部,製鋼部 1940年10月 山口県
佐世保鎮守府所属
  佐世保海軍工廠 造兵部,造船部,造機部,航空機部 1903年11月 長崎県
  川棚海軍工廠 水雷部(航空魚雷の製造のみ担当) 1943年05月 長崎県
舞鶴鎮守府所属
  舞鶴海軍工廠 造兵部,造船部,造機部,実験部(機関) 1903年11月
復帰1936年7月
京都府
   
 海軍工廠とは,海軍直営の軍需工場で,造船・航空 機・各種兵器・弾薬などを製造し,全国に14ヶ所ありました。昭和6年(1931年)の満州事変までは,全国に横須賀・呉・ 佐世保・広の4ヶ所しかなかった海軍工廠も,満州事変以 後,軍備増強の中,日米開戦,南方侵略の想定・実施から急速に軍艦や航空機,兵器の増強に迫られる ことになりました。そこで,舞鶴(1936年7月),豊川(1939年12月),光(1940年10月)の3つの海軍工廠が建設されました。
 しかし,第二次世界大戦が勃発するとこれら の工場でも生産が追いつかず,民間工場の軍需品製造転換方針に加え,新たに相模(1943年5月),川棚 (1943年5月),沼津(1943年6月),多賀城(1943年11月)と鈴鹿(1943年6月)の5ヶ所の海軍工廠の建設が計画・実施されました。 

もう10年も前のことですが…。
 読売新聞が行った全国調査の結果に注目したいと思いました。
 『1995年の文化財保護法の一部改正で,国史跡の指定対象が明治中期までから第二次世界大戦終了時までに広がったが,各自治体の戦争遺跡への保存,指定への動きは鈍い。しかし,文化庁が保存の必要性が高いとする「A級」にランクしていた遺跡は13都道府県で47件にのぼることも判明。戦争を体験した世代が確実にいなくなる21世紀に,これらは<無言の語り部>として大きな役割を果たしていくに違いない。』
 『戦争遺跡保存全国ネットワーク(事務局・長野市)の島村晋次さん(63)は「戦争体験を語れる人がいなくなる時がいずれはくる。実物に勝るものはなく,平和の大切さを訴えるためにも,貴重な『負の遺産』として守っていかなければならない」と話している。』

 近代史を理解するうえで欠くことのてきないA級の戦争遺跡として文化庁が指定した47件のうち,三重県は3件でした。
 3件とも,鈴鹿市なのです。
@旧鈴鹿海軍工廠
A北伊勢飛行場
B鈴鹿海軍航空隊

 此の附近一帯は、昭和17年から20年まで鈴鹿海軍工廠のおかれた所である。
 その後 一時この地の大部分は農地に転用され、食糧増産が図られたが、経済の伸展によって、次々と大工場が進出し、地域の急速な発展を促したのである。
 こうした経過を顧みるとき、かつて鈴鹿海軍工廠がこの地域の今日の発展の礎といえよう。
 この事実を永く記憶にとどめるため、当時の正門の銘板をここに残す。
          昭和50年8月
                     鈴 廠 会
          (原文のまま)
【移築された鈴鹿海軍工廠の銘板】
 イオンモールと旭化成ケミカルの間の交差点部分が海軍工廠の正門だった所ですが,その正門にあった銘板は,現在イオンモール鈴鹿の東側道路の東南方角に移築されています。
【鈴鹿海軍工廠火管圧填工場跡】
 工場は,木造平屋建が基本で,1棟は平均3,000〜4,000uの規模のものでありました。
【鈴鹿海軍工廠火管圧填工場火薬庫跡】

 特に火薬類は乾燥や調合,保管などに神経を使いました。だから,火薬を扱う工場や倉庫はレンガ造りでありました。
 現在も,物置として使用されています。
【鈴鹿海軍工廠山の手発射場着弾場跡】
 鈴鹿リサイクルセンターの敷地内に残る機銃発射場の標的跡。当時は,土嚢や土が入れられていました。工場で造られた機銃を試謝するための巨大な的。内部に土を盛って使用しました。土の中には13ミリ機銃や7,7ミリ機銃の銃弾が多数残っていましたが,リサイクルセンターの再利用に伴い撤去されました。
【鈴鹿海軍工廠山の手発射場火薬庫跡】
 奈良池北に現存する物資倉庫。工廠内の事故を回避するため工廠の南の奈良池や道伯池周辺の山地に火薬庫が建設されました。30万u程の広大な発射場があり,そこで試射されました。(右2枚:内部の様子)
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