鎌倉権五郎影政之塚 玉垣口駅と鎌倉権五郎影政 東海道中膝栗毛と鎌倉権五郎影政 供養
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鎌倉権五郎景政之塚
 国道23号線柳インターから平田町に向かう県道54号線と県道8号線が交わる交差点南東に鈴鹿簡易裁判所と鈴鹿区検察庁がある。そのすぐ東に鎌倉権五郎景政の塚と大日堂跡がある。
 相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてゝたゝかう間に,征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて,景正手負にたりとてのけざまにふしぬ。(『奥州後三年記』より)
 永保3年(1083),源義経郎党権五郎景政は,16歳の若武者で鎮守府八幡太郎義家に従い奥州後三年の役に出陣。『奥州後三年記』によれば,常に陣頭に立って奮戦していた時,敵将鳥海弥三郎に右目を射抜かれた。矢は首を射ぬき,兜の鉢付の板にささった。それでも,ひるまず矢を抜こうともせず敵を射止めたという。目の奥深くまでつき刺さった矢を抜こうと景政が三浦為嗣に命じ,なかなか抜けぬ矢に困りはてた為嗣が,景政をあおむけに寝かせ顔を踏みつけて抜こうとした時,景政が為嗣の足を払いのけ,大いに怒り,刀を抜いて為次を下から突こうとした。驚いてその訳を尋ねると,
「弓矢で死ぬことは武士の本望であるが,生きながら面を足でふまれるとは,いかにも堪えられない。汝を仇として自分も死のうと思った。」
と答えた。為次は,無礼を詫びて膝をついてていねいに抜いてやり,厨川の清水で傷を洗ってやったという。
 このような景政の武勇は,長く伝えられ,強い鎌倉武士の象徴的存在となっている。それだけに,鎌倉および各地には景政にまつわる数々の言い伝えが残っている。
 冒頭の伝説の続きは,以下の通りである。厨川の清水で,味方の武将三浦為次に洗ってもらったが,その後この厨川からは右目の見えない片目の(かじか)が出るようになり,景政の武勇に感じた珍魚として有名になり,明治以降三代の陛下の天覧を賜っているとのことである。(秋田県横手市金沢)

 専念寺には,景政が心を込めて祈ったところ,合戦で受けた目の傷が癒えたという伝説のある「深谷目薬師」と呼ばれる薬師如来があり,目の病気に霊験あらたかな仏様とされています。(横浜市戸塚区深谷町)

 後三年の役の後,右目の療養をした土地には『目吹』の地名が残されている。権五郎目洗いの池もある。(千葉県野田市目吹)
 それでは,鈴鹿市矢橋町の大日堂跡の前にある『鎌倉権五郎景政之塚』(円柱型の石碑)はどうであろうか。地元の方の話によると,今は()れてしまているが,写真の(@)の場所にあった小池には片目の鯉や亀がいて,その水は眼病に効き目があったと伝えられている。
 注目すべきは,水が供えられた石碑に刻まれている年号・『寛治元年』(A)である。寛治元年(1087)というのは,源義家が後三年の役(永保3年(1083)の戦勝のお礼に家臣鎌倉権五郎景政に命じて,熊野大社に銀杏を手植えさせたという伝説が残っている年である。今も熊野大社には,根周7.7m、主幹は約10m上部で失われていますが,地上2mばかり上から多数の大枝が直上して,高さ約30mにも達しているという銀杏の巨木があるというが,同じように矢橋町の鎌倉権五郎景政の之塚の右横にある銀杏(B)も,それほど大きくないが立派に成長している。
 未だ史実としての裏付けできる確実な資料を発見していないのでなんとも言えないが,『鎌倉権五郎景政が矢橋町にも立ち寄り,片眼を洗った可能性がある(眼洗い池の所以)』という推論は成立する。
(日本三熊野とよばれている他の2つの神社にも,1087年〜1089年に手植えしている)
 ただ,腑に落ちないのが,現実に鎌倉権五郎景政の墓が相模国・俣野荘崇福寺にあることである。鎌倉権五郎景政が,この地で最後を迎えなかったとすれば,ここの小池に住んでいた片目の鯉や亀の伝説は,誤って伝えられたことになってしまう。鎌倉権五郎景政の勇猛果敢の戦いぶりから庶民の信仰につながり,無病息災,事業繁栄,悪霊疫病退散の神として祀られたものにすぎないのだろうか。
取材時にも,地元の方が花と水を替えにきていました
露坐の大日像(1躯) 鎌倉権五郎景政之塚 大日如来をお祀りした大日堂跡
旧伊勢街道沿いにあります
(碑表) 大日如来道 /(右面)鎌倉権五郎景政古跡塚/(左面)嘉永四亥六月十八日:桑名米屋平吉
 景政と伊勢が深いかかわりがあったことを裏付ける史実はいくつかある。
(1)『神鳳抄』によると,景政は,1104年〜1131年にかけて,『大庭御厨』を開発している。伊勢神宮に寄
  進された寄進地荘園。大庭御厨下司となって荘園を管理した。現在の寒川町,茅ヶ崎市,藤沢市にまた
  がる相模最大の御厨だった。面積は天養元年(1144)当時で95町(『神鳳抄』では150町),収穫量は
  47,750束(4,750石)であったという。
   大庭は,海に面していたため漁業もさかんで,領家・伊勢神宮には干しアワビをはじめとして多くの海産
  物が神様への供え物(税)として納められている。(もっとも,景政の本来の目的は,伊勢神宮の保護下に
  入ることによって,外部から侵略されにくくなり安心して生活を送ることができる,つまり,不輸・不入の権
  を持った寄進地荘園にすることだったという)
(2)永久5年(1117),相模国土甘郷総社神明宮が,大庭御厨の領域の総鎮守と定められ、鵠沼(くげぬま)皇大神宮
  と称せられた。皇大神宮は,大庭御厨の総鎮守として尊崇されていた。
   長治元年(1104)には,鎌倉権五郎景政が所領の大庭荘を伊勢神宮に寄進し,大庭御厨となってから
  伊勢神宮大庭御厨の鎮守となったと伝えられている。
(3)『吾妻鏡』に,
  建久六年(1195)十一月小十九日庚子。相模國大庭御厨俣野郷内有大日堂。(中略)本佛。則權五郎
  景政在生。伊勢太神宮御殿廿年一度造替之時。伐取彼心御柱。奉  造立之。
  (建久六年(1195)十一月小十九日庚子。相模国の大庭御厨の俣野郷(藤沢市西俣野)に大日如来を
  祀るお堂があります。(中略)御本尊は,昔権五郎景政が生きていた頃に,伊勢神宮のお社は二十年に
  一度式年遷宮で建て替の時,その古い柱を下し賜りそれで建設したそうです。)
  とある。
 これらのことから,景政が「伊勢(伊勢神宮)の保護下」ということを,かなり意識していたことが明らかである。
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玉垣口駅と鎌倉権五郎景政
 海岸線を走る鉄道として『伊勢鉄道』が,大正4年(1915)9月19日,まず白子から高田本山の間が開通した。大正5年(1916)には,千代崎まで路線がのばされ,そして,大正6年(1917)11月,現在の鈴鹿市中江島町10-25(鎌倉権五郎塚まで4.5q。江島地蔵堂の西側)に『玉垣口駅』が開設された。玉垣口駅は,大正15年(1926)閉鎖されるまで存在していた。
 その伊勢鉄道・玉垣口駅の案内図に,名所旧跡として,大日堂と鎌倉権五郎の塚が紹介されていた。この頃は,信仰する人々で賑わっていたのであろう。
@伊勢鉄道の軌道は,軽便鉄道だった。
   一般的な鉄道よりも規格が低く(軌間1067o未満の軌道),安価に建設された鉄道のこと。
   石炭をたいて走るかわいい小さな汽車だったが,ずいぶん火の粉を飛ばしながら走っていたので,沿線
  に多かった藁葺きの家は火事が心配だった。実際,千里村のとある寺をはじめ9軒が燃えたという。
A玉垣口駅は,無人駅だった。
   無人駅のことを停留所といった。とはいえ,踏切の番と乗車券尾販売を担当する停留所長は存在した。

当時、全国的な輸送体系の見直しが行われて、幹線の国有化と平行して地域社会の足として民間資本で軽便や電気軌道の普及を奨励しました。それを強力に推し進めたのが鉄道院総裁であった後藤新平です。」
児童文学作品・きかんしゃ やえもんを思い出します
『写真集・三重百年』(中日新聞本社/昭和61年11月21日発行)より
    (左の写真)大正時代の伊勢鉄道・蒸気機関列車〈1号機関車〉
    (右の写真)大正8年ごろの伊勢鉄道の4号機関車〈四日市ー津間を1時間30紛で走った。〉
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東海道中膝栗毛と鎌倉権五郎景政
 『東海道中膝栗毛』(五篇下)のなかで,   
     
と,”弥次・喜多の二人が,鎌倉権五郎古跡ありと聞いた時,詠んだと紹介されている。
 この狂歌は非常に訳しにくいが,自分なりの解釈は以下のようになる。
@権五郎は源義家の後三年の役に16歳で従軍し,出羽金沢の柵で,敵将鳥海弥三郎に右目を射られた
 けれど,その矢を抜かないで,鳥海を追いかけて討っている。その史実を知っていた2人が,借金の『掛け
 取り』(借金を取り立てる)と『鳥の海』(鳥海)とをかけていると解釈する。
A『馬士』は,バシとも読める一方,コドモノヨウナモノとも読める。
Bそもそもこの歌は,弥次・喜多が,鈴鹿の街の入り口の宝殊山・火除地蔵堂で茶をすすりながら休んでい
 る時に,「三重の安芸まで戻る馬じゃから,荷をつけて二百五十で行きましょう。」という馬方の話にのせら
 れたことが発端で起こった借金騒動に関係する。乗っていた馬は,馬方・長太(ちょうた)権平次(ごんぺいじ)に借金のかたにと
 られていた馬であった。街道で偶然会った2人の押し問答の末に、馬方が馬の尻を思いっきり叩いたもの
 だから、喜多の乗った馬は、勢いよく駆け出してしまった。馬上の喜多は、一生懸命、馬の鞍に取り付いて
 いたが、馬はやみくもに走っているので、このままではどうなるかわからないと思い切って飛び降りた。しか
 し、馬の鞍の縄に足をひっかけ,真っ逆さまに落ちて腰の骨を打ってしまう始末。必死で追いかけてきた馬
 方が「もし、旦那。お怪我はないかいな。どりゃどりゃ。」と、喜多の手をとって引き起こす。その横を権平次
 が、馬を捕まえようと駆け抜ける。馬方は、これを見て、そうはさせないと抱きかかえていた喜多をそこにお
 っぽり出すと、権平次と馬を追いかけていった。
  そんな状況下での歌である。
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権五郎が敵将の鳥海を追いかけたと同じように,馬子が借金取りを追いかけている。2つを重ねて見てみると面白くなってきます。
という意味であろう。
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鎌倉権五郎景政供養

 4月6日(日)の10時より,大日堂にて,大日如来法要が行われました。
 大日如来の前には,『鎌倉権五郎景政』の墓があり,同時に供養が行われました。4月の第1日曜日が,矢橋町の皆様にとっては恒例の楽しみな行事となっています。多くの方々が参拝に見えていました。

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